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May 2010

2010.05.06

ひがみ

パンツを買うとき、たいてい丈をつめる。パンツといっても下着ではない。『下着の方のパンツの丈を詰めていたら、かなりアグレッシブなやつだ』ズボンのことだ。

ちょうどよいのがないのは、
オーダーメイドではなく、幅広い人を対象としたサイズで、丈を切る方向で調整するほうがよいという売る側の判断からだろう。

買うたびに、丈を詰める。

そんな人達は私の他にもいるはずで、それらをひとまとめに分類するためにあえて、
「ジーパン切る派のひと達」
と名付けることにしよう。

そして、もちろん逆の立場の人達もいる。
「ジーパン切らない派のひと達」だ


当然だけど『切る派』は買うときに店員さんに来てもらい、詰める長さを決たりという余分な工程がある。会計の後、待ち時間もある。

ようするに素直にいかないのである。


そしていつもその切った部分の扱いがきになる。私はなぜかいつも大量に切ることになるのだが、エコロジー的もったいない精神から考えてもその部分のことが気になるし、金額的にも気になる。勝手についていた余分を切り落としただけなのに請求がプラスされる。

もとから短ければ良いのに。
切らない派の人達が金を払って足せばよいのに。【この場合『足す派の人達』になる】


でも実際そんなことにはならないのは分かってる。しかしせめて余分な部分がなくてはならない側が余分に金額を負担するシステムにはならないだろうか?

だって、大量に切り捨てた上に金まで払らわされるなんてみじめすぎる。
それなら大量に切らなければ収まらない丈の物を流通させている人達が優越感と共に金額を余分に払えばいいじゃないか。


高田馬場の駅で背の高い外国人女性を見かけた。
その人はスラッとしていて身長180くらいあり、足も長い。そして
7分丈位のパンツを履いている。
いや、
もしかしたら7分丈ではなく
足りない派の人?


その人のカッコイイ様子と足りてないくらいの足の長さと、足りてなくてもカッコイイ様子に、

切る派、切らない派以前の問題で、似合う派の人達にたいしてのひがみであると理解する

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2010.05.05

電気自動車

技術の進化、環境に対する意識の変化、エネルギー問題、世の中の状況や様々な問題によって、生活は変化して行く。

車もそんなことで、最近は電気で動いたりするのが、新しくて良いらしい。


電動自動車全盛になるのが時代の流れなら仕方ないのだろうけど、

あの
『動いているのに音がない』
というのはどうにかしなければならない。

正確には音がないのではなく、『近づいてきていることにエンジン音で気づくことができない』というところだ。


電動バイクで夜の町を走り回る暴走族とか…

危なすぎる。


なんにしても、そんなとこで車に対する意識とか要望が変わっていくのだろう。

エンジン音が静かでパワーのある乗り心地のよい高級車より、電気で動く環境に配慮した乗り心地のよい高級車が売れるようになるのかな。まあ『高級』である必要はひとそれぞれかもしれないけど


しかし、高級であろうがなかろうが、音はないといけない。携帯についてるデジカメは変な盗撮とかできにくいように、強制的にシャッター音がするようにできている。電気自動車も『走る凶器』にならないために、自発的な音が必要だ。


そんな『音問題』の簡単で単純な解決策なら、エンジン音を付けてしえばよい。

モーター駆動にエンジン音があるとしたら、もちろん事前に録音したもののはずだ。つまり、エンジン音を選ぶ余地があるということになる。

とあるアメリカのバイクメーカーなんかは自社のエンジン音を特許として申請してるとかしてないとか。(アイマイ)


つまり、どんなに安っぽい電動自動車でも、イタリアの赤い高級スポーツカーの音と共に走れる可能性があるということだ。


プルミアム会員とかエコロジー感を出すために小鳥のさえずり音と共に走るオプションが用意されていたり、高級外車も特別な音で他とは差別化。初心者の音に高級外車の音、高齢者の音ももちろんあり。暴走を繰り返す懲りない運転者は強制的に遊園地のパンダの音にしてしまうとかもいいかも。町中はそんな怪しい電子音でいっぱい。


でもあの『もみじマーク』と同じで、音で年齢とかが判断できてしまうのは、すこし問題だ。なんて議論が噴出したりして。


真面目な話、街中は音が必要でしょ。高速道路とかは必要なさそうだけど。

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2010.05.01

期待

希望的な予想は期待と言えるのかもしれないけれど、期待していたことが、現実とかけ離れた結果に終わると、怒りや情けなさや恥ずかしさなんかを伴ったりすることもある。

しかし未来の現実は予想なんかできるわけはなく、つねに不明確だ。

不明確なのは当然なはずなのに、いまの置かれてる状況や起こってることが、現在の現実の場合であっても、それを自分の都合や理想にあわせて認識してしまうことさえあったりする。

認識は都合がまざり理想に近づき、現実と離れていく。その差は落差となり現実をみとめた瞬間にダメージを与える。


しかし、現実の位置がどこら辺かなんて、予想でしかない。

自分の生き方やあり方を自分の考え通りに実行できる人が居るのかはわからないけど、もし居るとしたら、その人は自分のあり方や生き方をどのように考え、どのように実行するのだろう。


常に自分と現実の距離を意識して、現実の位置を予想し、自分の位置がそれから離れすぎないように、常によい距離を保ちつつ、すこしだけ理想をもって生きて行く。
堅実な感じだけど、なんか、楽しくなさそう。

逆に、
過去や現実なんか関係なく、自分さえも騙せるくらい真実から遠く、空想のなかに理想をみいだし、ただただそれを追い求め、通る道を選ばずに走り抜ける。

こんなのは幸せそうだけど破滅的だ。


理想、現実、希望、期待、こいつらは同じ軸線上にいて、程度問題なさじ加減でどっちでもありだけど、感情は自分基準でしかあり得ないので、理想、現実、希望、期待、とは違うところに存在している。そして感情を目標にするのは難しく、正確に比較することもできないから、過去の理想と未来の現実のような、ダークぎみなグレーゾーンは存在しにくい。

理想や期待に『欲』の部分があるなら、その反対が感情なのだとおもう。
欲と感情、どっちもないのは人間らしくないから、社会生活に対応とかするなら特に、両方とも持ちつつバランスをとることが重要だ。
『あの葡萄は酸っぱい』みたいに、諦めることで健全でいようとするのが、人の機能だとすると、理想や期待は諦めることができなくはないけど、感情は諦るのが難しいのではないか。

諦められる欲とコントロール出来る感情が適度にある状態が健全なのかも。
そして、日々のいろんなタイミングで、すこしづつでも喜びを見いだして行けるほうが、健全でいられるきがする。

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